平和のありがたさを語る伊江島の戦争遺跡「公益質屋跡」と慰霊塔「芳魂之塔」
こんにちは、伊江島観光バス株式会社 Blog担当の藤川です。
伊江島には「タッチュー」と呼ばれる伊江島のシンボルや断崖絶壁の景勝地、
ここにしかないハイビスカス園やキャンプ場など美しい観光スポット以外に、
過酷な第二次世界大戦で負った戦争史跡があります。
第二次世界大戦の終盤、伊江島には「東洋一の規模の飛行場」と言われた伊江島飛行場があり、
守備隊も配置されて日本軍の重要な軍事拠点となっていました。
その飛行場の占領し、本土攻略の足掛かりを目指した米軍と日本軍との間で
1945年4月16日~21日の6日間、激しい戦闘が行われ、
日本軍だけなく数多くの住民も巻き込まれました。
そこで平和のありがたさを感じ、後世に伝えて頂くためににぜひ、伊江島に来た際は、訪れていただきたい 戦跡史跡「公益質屋跡」、慰霊塔「芳魂之塔」をご紹介します。
公益質屋跡(村指定史跡)
戦争の激しさを物語る戦跡のひとつに、公益質屋跡があります。
戦前のコンクリート建造物としても貴重な史跡です。
公益質屋とは?
公益質屋とは、市町村や社会福祉法人が設立した公益を
目的に経営した質屋。伊江村では、昭和4年(1929年)12月に、
政府の融資を受けて設立されました。設立当時は世界大恐慌のため村の財政や村民の生活が苦しい時期であり、
高利貸しの暴利に泣く村民に低利の融資を行い、
生活の安定をはかったそうです。
昭和20年4月16日。
伊江島では日本軍と米軍との間で激しい戦闘が始まります。
島の周囲を米軍艦隊が取り囲み、
住民約1500人、日本軍将兵約2000人の人々が犠牲になりました。
その際、公益質屋も米軍の激しい攻撃を受け、建物の天井や壁に
受けた無数の弾痕や砲弾の跡が、今も生々しく残されています。
またこの公益質屋は、伊江島の激戦の中で、唯一原型をとどめた建物としても
貴重な史跡です。
建物のいたる所に受けた無数の傷跡の公益質屋や圧倒的な存在感で、
目の当たりにすると、戦争の恐ろしさを語り掛けてくる感じがしました。
- 村指定史跡 公益質屋跡
- 〒905-0501 沖縄県国頭郡伊江村字東江上
芳魂之塔(ほうこんのとう)
伊江島戦では、伊江島地区隊、第二歩兵隊第一大隊、独立連射砲一個中隊、
独立機関銃一個中隊、第50飛行場大隊、第502特設警備工兵隊、
独立整備隊、野砲小隊、さらに地元の伊江島防衛隊、伊江島青年義勇隊、
伊江島女子救護班、婦人救護隊が戦闘に参加して尊い命が犠牲となりました。
第二次世界対戦の沖縄戦で犠牲となった守備軍将兵約2,000人と
住民約1500人 合計3,500人余りが、芳魂之塔に合祀されています。
この塔には、歌人・名嘉元浪村の詠んだ
「ひねもすを とどろとどろと潮騒の声をまくらにここだくも
眠れる霊の夢まどかならむ」の歌が刻まれています。
伊江島での戦闘が終結した毎年4月21日に平和祈願祭が開催され、
犠牲になられた方の安らかな眠りを祈っています。
- 芳魂之塔(ほうこんのとう)
- 〒905-0504 沖縄県国頭郡伊江村字西江前